2013年11月10日 塩山宗満
マタイによる福音書 20章1-16節 (新約 38ページ)
イエス様がこの話をされた当時のファリサイ派の人や律法学者は、律法をきちんと守っているので、自分たちは他の人よりも優れて神に近いと思っていました。でも、天国に入るのは神の恵みによるのであって、人が行った業によってではないとイエス様は言われます。業績による出来高払いではないのです。イエス様はこのファリサイ派の人たちの偽善的な言動にたいしてこのたとえ話を通して警告をしておられるのです。
イエス様の弟子たちの間でもこの問題は起きかねませんでした。今日のところのすぐ後に、えらくなりたい弟子たちの騒動が記されています。教会では皆が謙虚でなければならないのですが、ともすれば長老とか長く教会にいる人のほうが権威を持ってしまうことがあります。長くクリスチャンでいる人たちが神に近いわけではありませんし、牧師だから恵みが多いわけでもありません。牧師のほうが逆に厳しい神からの審判にあうのではないかと思うのです。
幼いときに、または若い時に神のもとに召されていった人たちがいます。長寿を与えられて神に用いられている人もいます。どちらも神の恵みによって一定の期間神から生かされていて、神の前にはどちらも同じだということをこの聖書は示しています。私たちが受ける報酬は恵みである、ということです。私たちの努力とか働きで天の国、神の国にはいることができるのではなく、ただ、神の恵みを受けるかどうかが問題なのです。恵みであればこそ最初から働いたものも最後に来たものも等しくそれを受けることができるのです。皆さん、主イエスを救い主と信じて、共にこの恵みに預かろうではありませんか。