2014年6月1日 塩山 宗満
ヨハネによる福音書 12章20-26節 (新約 192ページ)
ギリシア人からのイエス様のところへ連れて行ってほしいという願いに対する答えは、主イエスに直接お目に掛かるということではなく、十字架につけられるイエス様を見上げ、信じて、その導きに従って生きていきなさい、ということでした。
そのことを知った私たちも、自分の命を愛するように、自分勝手に生きることができなくなってしまいました。私たちもまず、神の国と神の義を求めて生きて行かざるを得なくなったのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたイエス様の言葉を伝えながら生きていかざるを得なくなったのです。
このあと、西東壽雄兄のバプテスマ式を行います。お年を召したから初めて聖書の言葉を聞いて、理解する、というのは簡単ではありません。それで、これだけは憶えてしまいましょうとお薦めした聖書の言葉が二つあります。一つは創世記1:1「始めに神は天地を創造された」で、聖書のすべてがここから始まっていることを確かめました。もう一つはヨハネ3:16「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」この二つの聖句が聖書全体を言い表しているといって良いでしょう。この言葉が、イエス様の「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」とのみ言葉とつながるのです。私たちも、主イエスを救い主と信じ、私たちのために命を捨ててくださったイエス様に従って、与えられた人生を歩んでいこうではありませんか。