2014年10月5日 塩山宗満
詩編 128編1-6節 (旧約 972ページ)
宗教改革を行ったマルチン・ルターは修道院で神に仕える働きと同じように、いやそれ以上に、世間での毎日の生活や労働が「隣人を愛する」ことになりうる、そしてそれぞれの職業は神から与えられた任務だと主張しました。
けれども働く場をどう選ぶかと言うことになると、私たちは迷わざるを得ません。仕事や、その業績によって評価され、私たちの価値を決められてしまうことが往々にしてあるからです。実力主義とか、成果主義とか言われる今の世の中ですが、イエス様のぶどう園の労働者のたとえを思い出してください(マタイ20:1-16)。主人は、「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしは最後に来た人たちにも同じように払ってやりたいのだ」と言いました。このように神はどの働きにも同じ様に評価されるのです。
額に汗して働くことは尊いことです。ただ、現実には私たちは仕事のことで悩みます。まず、仕事があればいい方で、なかなか良い仕事に巡りあわないし、収入も増えません。「はたらけど
はたらけど猶 わが生活(くらし) 楽にならざり ぢつと手を見る」とは石川啄木の短歌ですが、この感覚は今の私たちにも良く伝わってきます。与えられた仕事に満足がいかず、苦しむこともあるのではないでしょうか。良い仕事だと思ってやってきたけど、そのことが環境に悪影響を与えるとか、平和を壊すかもしれないとかで、悩む人もいるでしょう。そんな中でわたしたちは改めてすべての人が神の前に愛されていることを確かめ、この愛を受け入れることで神から与えられた職業を全うしていくことができるよう祈っていきたいものです。