2014年10月12日 塩山宗満
詩編 130編1-8節 (旧約 973ページ)
「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして。見張りが朝を待つにもまして。(130:5-6)」待つ、と言う言葉が4回繰り返されています。詩人はひたすら神が来てくださるのを待ち望んでいます。赦しと救いが神から来るのを待っているのです。見張り、とはエルサレムの城を守って、夜通し番をしている兵士のことです。朝が来る、と待っているのは疲れて、もう眠気がさしてきた兵士でしょう。でも、その兵士も必ず朝が来ることは知っていますから、期待して待っています。詩人が御言葉を待ち望むのは、その御言葉によって主のいつくしみ、購い、救いが自分に向かって届けられることを知っており、罪の赦しがあることを知っているからです。それを戴くためには人間の側からの行いも努力も必要ではなくただ恵みとして与えられることも知っています。
この詩人は自分個人の罪と戦いながら、イスラエルの民の罪を告白し、神がそこから購ってくださることを歌います。この詩人と同じように、イスラエルの民も深い淵に沈んでいるように罪の中に置かれています。そして、イスラエルも救いに預かるように願い、同じように確信を持って主が救ってくださることを語ります。
このイスラエルという民のことを教会と置き換えてみましょう。主を信じる教会よ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな購いの主のもとに。主は教会をすべての罪から購ってくださる。茂原バプテスト教会もその恵みからはずれることはありません。