2015年9月20日 塩山宗満
詩編 142編1-8節 (旧約 982ページ)
「声をあげ、主に向かって叫び、声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。御前にわたしの悩みを注ぎ出し、御前に苦しみを訴えよう。(142:2-3)」詩人は大変な悩み、苦しみを抱えています。こういうときにはその苦しみを訴え、聞いてもらう相手が必要です。そこで、詩人は彼の声を聞いてくださる、ただ一人のお方と対話ができることを知り、そのお方の前に悩みを語り、苦しみを訴えようと大きな声を上げて叫び、憐れみを求めました。そのような、語ることができる相手がいる、と言うことだけでも、詩人の耐えられないような苦しみはいくらか軽くなります。祈り、叫ぶことによって「助け手」があることを実感することができるので、孤独ではない、という慰めが与えられます。
この詩人には、主なる神という、助け手が備えられました。わたしたちにも助け手が必要です。神ご自身が助け手であるのはもちろんですが、同時にわたしたちにはこの生きている世での助け手も必要であることを知っておきたいと思います。また一方で助け手を求めている人たちの「助け手」になることも求められています。
助け手を求める祈りをこの詩人はしていますが、彼の置かれている状況は絶望的です。それでも、この詩人は執拗に祈ります。祈りとは本質的にそのような、形に捕らわれず、心の中をさらけ出すものなのではないでしょうか。わたしたちの今年度の主題聖句を思い出して下さい。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(ルカ11:9)」祈りとはまさにこの言葉のことでしょう。