2016年2月7日 塩山宗満
申命記 19章1-13節 (旧約 310ページ)
「逃れの町」とはふしぎな所です。わたしたちは相手の過ちを責め立てて、相手に逃げ場すら与えないことがあります。しかし主なる神はわたしたちを追い詰める様なことはなさいませんでした。かえってわたしたちの罪を独り子イエス・キリストに背負わせることによって、わたしたちを受け入れてくださったのです。ですから、新約聖書の光に照らせば、十字架の主イエスこそが逃れの町だと言うことができるのではないでしょうか。
被害者の身内にとって、この逃れの町は加害者側に有利にできているように思えるかもしれません。たとえ故意ではなくても命を奪った者が無実とされるのは、受け入れることが難しいかもしれません。でも、神はこの逃れの町を用意することによって、顔を合わせれば裁き合い殺し合いをしかねない加害者側と被害者側の間に距離を置いてくださっているのです。
今の社会には逃れの町などありません。その中でわたしたちは問題を起こしたり、弱みを見せたりしたら大変だといつも人の視線を気にして暮らしています。でも、教会には誰もが、古くからいる人も新しく来た人も、互いに過去や罪の重荷を抱えながらやってきます。そこで、わたしたちはあるがままの自分をもって互いに罪人として、また同じように神に愛されている者として、ともに主を仰ごうと教会にやって来るのです。
わたしたちの教会も今日の聖書のような「逃れの町」、今日の賛美歌のような「いとしずけき港」として、一人でも多くの苦しみを持った人たち、悲しみを持った人たちと一緒に主なる神を見上げ、イエス・キリストを見上げて歩んで参りたいと願います。