2016年2月21日 塩山宗満
申命記 31章30節-32章12節 (旧約 332ページ)
イスラエルの民は、まもなくヨルダン川を渡ってカナンの地に入っていくのですがその時にまず心がけておかなければならないのは主なる神がどのような方であるかをしっかりと知らなければなりません。モーセはその神を次のように語ります。「わたしは主の御名を唱える。御力をわたしたちの神に帰せよ。主は岩、その御業は完全で、その道はことごとく正しい。真実の神で偽りなく、正しくてまっすぐな方。(32:3-4)」
その正しい神に対する、イスラエルの民の様子はどのようなものでしょう。「不正を好む曲がった世代はしかし、神を離れ、その傷ゆえに、もはや神の子らではない。愚かで知恵のない民よ、これが主に向かって報いることか。(32:5-6)」ここに書かれている姿は、思い出すだけでも恥ずかしくなるような姿ではありませんか。真実な神には真実をもって答えず、神の恵みを忘れてしまっているのです。
そのような民の対応であっても、主なる神の真実は変わりません。神はあくまでも真実です。ですから、イスラエルの民は自分の姿がたとえ不真実であろうとも、真実の神の姿を待ち望むほかはないのです。
たとえわたしたちの中身はイスラエルの民のように神に背き、罪に支配されているよう見えても、それを乗り越えて主なる神が支配しておられるのをわたしたちはしっかりと見届けなければなりません。憩いの場プロジェクトでは次の段階へ進む案がまとめられています。また2016年度の活動計画も執事会や先の「新年度を考える会」の討議内容を基に練られています。新しい年度もご一緒に神の業のために邁進していこうではありませんか。