2016年3月13日 塩山宗満
ルカによる福音書 23章13-25節 (新約 157ページ)
誰がイエス様を十字架につけたのでしょう。罪はないと言っていたピラトの判断をユダヤ人の指導者たちや群衆の強い要求によって変えさせたのですから、イエス様を十字架につけたのはユダヤ人でしょうか。または、ユダヤ人ではなく、判決を下したローマ人ピラトがイエス様を十字架にかけたのでしょうか。判決をくだしたから、責任はあります。もっとピラトがしっかりしていたら、こんなことにはならなかったでしょう。
では、わたしたちがその時代にこの場面にいたらどうしていたでしょう。主なる神が私たちの救い主として遣わして下さった独り子主イエスに対して、私たちはどのように出会っているでしょうか。主イエスを信じて受け入れ、その教えに従って、神を愛し、隣人を愛して生きることこそが、私たちのなすべきことです。しかし私たちはそれどころか、主イエスを迎え入れようともせず、自分勝手に生きようとし、自分の願いをかなえてくれるものにだけ依り頼もうとしています。そしてその結果、隣人をも愛し慈しむことができなくなり、むしろ傷付け、苦しめてしまい、お互いの間に良い交わり、関係を築くことができなくなってしまう、それが罪に支配されてしまっている私たちの姿です。それは主イエスを十字架につけろと叫び、イエスよりもバラバを選んだ民衆と全く同じことをしているのです。
この受難節の時に、心を静めてイエス様のことを思い、イエス様の願われたこと「主イエスを信じて受け入れ、その教えに従って、神を愛し、隣人を愛して生きること」を自分のものとしてこの時を過ごしましょう。