2016年3月27日 塩山宗満
ルカによる福音書 24章28-35節 (新約 159ページ)
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(24:30-32)」
この二人の弟子たちのように、わたしたちにはイエス様はなかなか見えません。暗い顔をしてうつむいて歩いていた弟子たち、わたしたちもそのような人生の時があるでしょう。そんなときにも実はイエス様は共に歩いてくださっているのです。
イエス様に出会うと聖書のことが分かり初め、心が燃えて暖かくなります。
イエス様のことは、聖書を読み、その説き明かしを聞くことによって見えてくるし、わたしたちのうちに喜びや希望が生まれてくるのです。
キリスト者になってもわたしたちには目がさえぎられて、イエス様が見えなくなる時があるでしょう。不安が一杯で、苦しくて、どうしようもないとき、そんなイエス様に一番いてほしい時に見えなくなることがあるのです。でも、そのイエス様がまた姿をあらわしてくださいます。「パンを裂いて」というのは主の晩餐式のことです。わたしたちが聖書を読んでいるとき、また教会の仲間たちと一緒に主の晩餐式でパンを取って戴いているときにわたしたちは主イエスが見えてくるのです。
ご一緒に聖書を読み、礼拝に出席し主の晩餐式に預かり、イエス様に出会って心を燃やされて、与えられた人生を歩んで参りましょう。復活祭、おめでとうございます。