2017年1月22日 塩山宗満
エフェソの信徒への手紙 2章1-10節 (新約 353ページ)
「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。(2:1)」とこの教会の外の人たちに話をすると、どんな反応が返ってくるでしょう。平均的な日本人だったら「冗談ではない、わたしはそんな罪なんか犯していない、まじめに暮らしている人間なのだからわたしには関係がないよ。」と言われるでしょう。
悲しんでいる人を慰め、苦しんでいる人を励ます教会はイエス様の思いにかなった働きをしています。でも、世の中にたくさんいる、一見福音を必要としていないような人たちにどのように福音を届ければ良いのか、そのことを教会はもっと工夫しなければならないのではないでしょうか。それには、神が愛であることをまず伝えることがよいでしょう。その神の愛に触れていると自分の持つ問題が見えてきて、罪が分かってきます。神がわたしたちをご自分の像に造られたことを知ると、それまで自分のことだけを考えていて、周りの人たちのことを考えずに生きてきたことを思い出させるのです。
「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。(2:10)」キリストの愛と恵みを知らされたわたしたちは、自らの罪を知るようになり、悔い改めに導かれますが、そこにとどまってはいません。神が前もって準備してくださった善い業を行って生きていくのです。ご一緒に神が用意してくださったなすべきことを探し出して、行って、歩んでまいりましょう。