2017年10月8日 森下辰衛
コリントの信徒への手紙一1章18節、使徒言行録13章41節
人は損しないように、失敗しないようにと自分にも他人にも要求します。しかしそれには、強いストレスを伴います。損得の勘定や失敗を恐れる心から解放されたら、どんなに生き易くなり、生きることが喜びになるでしょうか。
27歳の私を神様が拾ってくださったとき、私はイエス様のためなら何でもしようと思いました。感動し感謝すると人間は馬鹿になれますが、悲しいことにやがてまた賢くなり、計算するのです。でも、神様はもう一度馬鹿にならないかと手を延べてくださる方です。
私は大学の助教授を辞めました。三浦綾子を用いて伝道せよという声を聴いたからです。「どうしてお前は恐れて引き返そうとするのか?計算をやめよ」「見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちにどんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。(使徒13:41)」 私は、献身を決意しました。
人生は神の言葉に対する態度によって変わります。アダムとエバも、イスラエルの民も、アブラハムもそうでした。神であったにもかかわらず人間になり、罪がなかったにもかかわらず十字架刑にされたイエス様の生涯は人類の救いという奇跡を果たされました。私たちは自分の無力や悪い状況を見て落胆しますが、その時こそ「にもかかわらず」の奇跡である十字架を見ましょう。神さまはいつでも、にもかかわらず愛し、にもかかわらず信じ、にもかかわらず従う馬鹿と共に奇跡をなそうと待っておられます。神の言葉は愚かに見えます。でも神の言葉と共にあざけられる側に立ちましょう。神の言葉によって馬鹿になりましょう。