2018年7月15日 塩山宗満
ヨハネによる福音書 3章22-36節 (新約167ページ)
憩いの場と納骨施設の建築に伴って、わたしたちの教会はこれからどのような方向を目指していけば良いのか検討を進めています。いろいろな形の教会があります。元気の良い、活き活きとした教会、目覚しい成長を遂げていく教会、若者があふれる教会など。けれども、私たちの教会には、少し違った方向もあるのではないかと思うのです。
ある方が私にこう語りかけます。「聖書には奇跡が一杯書いてあるのに、2000年経った今は何一つ起きないではないか、なぜだ」と言うのです。教会はもう「いやし」のわざは病院に任せてしまったのでしょうか。それとも、私たちの信仰がたりないから、祈りがたりないから「いやし」が起こらないのでしょうか。
こういう意見をある本で読みました。「現代の教会にいやしが起こらないのは教会が健康志向でありすぎるからではないか。『信仰しているものは喜びと感謝にあふれ、力と勇気に満ちていなくてはならない』と言われる。教会がそれを強調しすぎると、弱さしか見せられないような信仰者はどこに行ったらよいのだろうか。教会はもっと嘆きの声や、悲しみや、うめきの言葉を自由に投げかけられるような場所になっていてよいのではないか。その時に、いやしが起こるのだ。」
わたしも「そうだ、私たちの教会の存在意義がそこにあるのではないか」とおもわされる時があるのです。心地良い話をわたしたちは聞きたいのです。でもそれだけではなく、時には苦しいことも、悲しいことも、痛いことも持ってきて分かち合い、支えあう教会、そんな教会になると、そこにいやしが起こってくるのです。