2018年9月23日 塩山宗満
ヨハネによる福音書 8章12、20-30節 (新約181ページ)
この世に光がなかったら、と想像してみてください。わたしたちにはどうしても光が必要なのです。その光はどこから来るのでしょう。神が私たちを照らす「光」です。イエス様は「わたしは世の光である。」と宣言することによって、ご自分が神であることをわたしたちに示されたのです。
仮庵の祭りの中で「わたしは世の光である。」とイエス様が言われたのは、「この神殿の灯火は祭りが終わると消えてしまうけれども、私は世の光である。私に従う者はこの賑やかこの時だけではなく一生光を浴び続けていく。わたしは人々のために永遠に続く光である」と言っておられるのです。
「世の光」と聞くと 「あなた方は世の光である(マタイ5:14)」を思い起します。イエス様が弟子たちに「わたしと同じものであれ」と求めておられるのです。
ただ、「あなたがたは世の光であって、あなたがたの立派な行いを見て、人々が天の父をあがめるようになる」と言われると、自分なんかにそんな生き方はできない、と思ってしまいそうです。けれども、何もないと思っているわたしたちでも、この20年の歩みを振り返ってみると「世の光」として歩ませられているのではないでしょうか。わずかな人数で歩みを始めたこの教会はここに建てられていることで充分「世の光」としての役割を果たしているのです。
憩いの場の建設が進んでいます。工事が進む毎に、世の光であるイエス様に照らされたわたしたちが、そしてこの教会と憩いの場が、「世の光」として「主に仕え、地域に仕える」教会としての歩みを進めることができるよう祈らざるを得ません。