2018年11月11日 塩山宗満
ヨハネによる福音書 12章1-8節 (新約191ページ)
「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。(12:7-8)」この言葉が語られたのはイエス様の最後のエルサレムへの旅の途中、もう死は免れないことをイエス様は覚悟しながら語っておられます。マリアはイエス様を心から愛し、夕食の席で彼女の精一杯の歓迎をしたのですが、そのことが実は葬りの用意になっていたのです。
マリアの行動はもう一つ、何事にも時があることを示しています。マリアは知らず知らずのうちに、もうこれからは一緒にいてはくださらないイエス様のために、その時を掴んで仕えたのです。私たちは時々何か良いこと、何か人のためになることをしたいという思いに駆られる時があります。けれども私たちはほとんどの場合それを、明日やろうと思って延期してしまい、結局何もしなくなってしまいます。
一年分の働きに相当する香油を主イエスに献げたことは、ちょっと常識はずれでしょう。マリアはコスト計算などはしておらず、ついイエス様を前にしてぱっと壺を持ち出して、イエス様の足に掛けてしまったのでしょう。私たちも時には主のためにこのような常識はずれをしても良いのではないでしょうか。わたしたちがこうして憩いの場を建てようなどと言うのも無茶なのかもしれません。正しく、常識的に生きるのは必要なことでしょう。でも時には非常識になって神のために働くことも良いのではないでしょうか。主のために常識はずれをしてみませんか。