2019年10月6日 塩山宗満
詩編 144編1-15節 (旧約 984ページ)
神の救いの業の内に置かれている民はなんと幸いなことか、と15節で祝福を宣言していこの詩の中に「主よ、人間とは何ものなのでしょう、あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう、あなたが思いやってくださるとは。人間は息にも似たもの、彼の日々は消え去る影。(144:3-4)」という人生は束の間だ、どんな意味があるだろう、と問う言葉が含まれています。そして、そのような人間に、神は親しく手を差し伸べ語りかけ、幸いに活かそうとされるのです。
新約聖書にこのようなところがあります。「あなたが心に留められる人間とは、何者なのか。また、あなたが顧みられる人の子とは、何者なのか。(ヘブライ2:6)」人間ははかない存在であります。60年、70年の人の一生は、人類の歴史や宇宙の歴史に比べたら、まさに一瞬でしかありません。それなのに主なる神はその人間を「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。(ヘブライ2:7-8」。この彼とはここではイエス・キリストのことを指しています。神は主イエスをわずかの間天使たちよりも低いものとされました。それは主イエスが、死の苦しみを通して「栄光と栄誉の冠を授けられる」ためで、そのことを通して、主イエスがすべての人のために死んでくださったのです。
イエス・キリストを戴いているわたしたちは今日の詩編の最後、「いかに幸いなことか、このような民は。いかに幸いなことか、主を神といただく民は。(144:15)」という幸いを味わって、毎日を主を仰いで過ごしたいと願うのです。