2020年11月8日 三羽善次
マタイによる福音書 7章1-6節(新約 11ページ)
主イエスの言葉には、時折、誇張された表現が使われています。今日の聖書の個所では、「ちりと丸太」のたとえです。この話を聞いた人は、一度聞いたら忘れられません。
ここで主イエスは「裁くな」と言われます。裁くという言葉は、まず自分が裁き主になっていることを指しています。自分は正しくて、相手は間違っているという感覚です。上から目線と言っていいものです。福音書の中ではパリサイ派の人、律法学者と呼ばれていた自称正しいひとたちの視点です。
しかし、この主の言葉は、他でもない私たちに語られていることを忘れてはなりません。裁くなということは、日常の感覚で言えば、私たちが人を軽々しく批判したり相手のあら探しをすることです。それも自分の事は棚に上げて、つまり自分目の中の丸太を見ないで相手のちりのような欠点やあら探しをするのです。私たちはこういう点では誰もが才能があるのです。
裁くこと、人を批判し人のあら探しをすることをやめるには、どうしたらいいのでしようか。それはただひとつ、裁かないことです。裁かないとは、つまり赦すことです。相手を自分の物差しで測らず、そのまま受け入れることです。
主イエスの弟子ペトロは、主イエスの逮捕の時逃げ去りました。どこまでも主イエスに従っていきます、と言っていたペトロが、自分の身の危険を察してイエスを見捨てて逃げさりました。しかし主イエス裁きではなく赦しの眼差しを向けられました。
主イエスの十字架によって、信じる者を裁くことをせず赦された者とされたのです。だから、私たち信仰者は裁きではなく、赦されている者として、赦しに生きるのです。