2021年4月25日 塩山宗満
ルカによる福音書 16章19-31節 (新約 141ページ)
この金持ちの、そしてファリサイ派の人たちの問題は何だったのでしょうか。それは聖書の言葉を自分の都合が良いように解釈していたところにあるのです。モーセの律法は収穫を貧しい者、寄留者と分かち合うべきだと記しています。「この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。(申命記15:11)」とも言っています。富を持っているものは分かち合いなさい、と聖書は繰り返し語っているのに、この金持ち、そして話を聞いているファリサイ派の人たちはそのことに思いが及ばないのです。イエス様が言われていることは、「貧しさの中におかれている仲間を見る目をもたず、それを受け入れられない金持ちのたどる道が、神の目から見たらこういう所へ落ち着くのだ」という事でしょう。だとすると、このことは金持ちではなくても、より貧しい人を見たときにどういう行動をしたらよいかを私たちに投げかけてもいるのではないでしょうか。
この金持ちはまだ悔い改めの時が残っている間に徴としてラザロを生き返らせて、父親の家に送って兄弟たちが「こんな所に来ることがないように」と警告をしてやってほしいとアブラハムに願いました。けれどもアブラハムは、「聖書が与えられているのに、それを読んで悔い改めないのなら、よみがえったラザロが訪ねていっても、悔い改めることはないだろう。」と断っています。何か奇跡的なことが起こればキリストを信じるのだけど、という人たちがいます。けれども主イエスは、必要なことはすべて聖書に記されているのだから、聖書をしっかり読んで、福音を信じることだけが求められるのだ、と語っておられるのです。