2021年6月6日 塩山宗満
ルカによる福音書 18章9-14節 (新約 144ページ)
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(18:14)」徴税人は「罪人の私を憐れんでください」と祈りましたが、その徴税人は神の前に「義」とされ、それに対してファリサイ派の人は義とされず、恵も与えられていません。イエス様の言葉によると世間から見て正しいと見られるのと、神ご覧になって正しいと見られるのには違いがあるのです。
では、私たちはどちらなのでしょうか。あのうぬぼれているようなファリサイ派の人なのか、神により頼む徴税人なのでしょうか。
私たちは聖書に出会い、イエス様に出会い、イエス様との交わりを通して、神が罪人である私たちを受け入れてくださるのを経験します。そしてそのときに、私たちは「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と叫ばざるを得なくなるのです。私たちはそのような経験しています。そうすると私たちは、「憐れんでください」と叫ぶ徴税人でしょうか。確かにその通りです。でも、私たちは時にいつのまにかファリサイ派の人の祈りをしていることに気がつきます。ですから私たちは時にファリサイ派の人だし、ときには徴税人のように悔い改め、イエス様に祈っている、どちらにもなっているのではないでしょうか。
私たちはイエス・キリストの愛に出会い、私たちの罪を自覚し、それをイエス様の生涯を通して赦して頂いていることをいつも確かめましょう。そのことに感謝をしながら、神の憐れみを求め続け、祈り続け、神と人とに仕えていこうではありませんか。