2021年10月17日 塩山宗満
詩編 24編1-10節 (旧約 855ページ)
詩編24編はキリスト教会の中ではアドベントの時に読まれる詩編だといわれてきました。それは「栄光に輝く王とは誰か。万軍の主、主こそ栄光に輝く王。(24:10)」この万軍の主、栄光に輝く王と言う言葉にイエス・キリストを見いだしたからなのです。そのキリストが来られたのは、勝利し、支配するためではなく、仕えるためでした。主イエスの勝利とは多くの人の身代わりとして、十字架の上で死ぬことでした。主イエスが富むと言うことは多くの人を豊かにするためにご自身が貧しくなることでした。
イエス様の偉大さは、その貧しさの中にありました。思い起こしてみましょう。生まれてきたのは動物小屋の飼い葉桶の中でした。大工の子として30歳まで働きながら家族を支え、そのあと神の言葉を伝える働きに向かわれましたが、関わる人たちは貧しい者、病を持っているもの、障害を抱えている人、いわゆる罪人といわれていた人たちでした。その人たちに神の愛を伝え、病を癒やし、生きる望みを与え続けていかれました。
関田寛雄先生の書かれた「『老い』を生きるための黙想」という文章の中にこういうところがありました。「主の教えと働きは弟子たちによって担われ継続されなければならない。その派遣における指針は『傷だらけの体』をさらされた主の復活の事実以外にはない。主に倣って歩む道は主の傷に与りつつ歩む道である。すべてのキリスト者は使命に生きるべく召命に与っている。」
わたしたちも生涯を「万軍の主、主こそ栄光に輝く王。」であるイエス・キリストのことを語り続ける使命に与るものとして生きていこうではありませんか。