2021年12月19日 三羽善次
マタイによる福音書 1章18-25節
クリスマスがやってくると、だれもが楽しい気分になります。
しかし、聖書が私たちに語るクリスマス、つまり主イエス様の誕生はただ楽しい気分に浸っていればいいわけではありません。
聖書がまず告げているのは、私たちには救いが必要だといっているのです。私たちはこの言葉に考え込みます。私には救いが必要なのだろうか、と。生活も安定しているし、家族もいるし、まずまず平和に暮らしているではないか、だから救いは必要がないと思っています。
そういう私たちに、クリスマスは、あなたには救いが必要だと伝えているのです。救いは、私たち人間の生きる根本にかかわることです。わたしたち人間は、何故いま生きているかを問い続ける存在です。
聖書では人間の罪というとき、それは暗闇を指しています。この暗闇が、私たちに生きる意味をぼやかしているのです。つまり罪という暗闇が人生を真剣に考えない人間にしてしまうのです。
私たち既にバプテスマを受けたものは、主イエス-キリストの救いは、もう足りているのでしょうか。間に合ってますといえるのでしょうか。
クリスマスの救いは、信仰に生きている私たちも含めて、今すべての人に告げられています。救いには完了はないのです。今も進行形で私たちに告げられているのです。
聖書が語る救いとは、バプテスマの時、水の中に身を沈めて、人は古い自分に死に、水から上がると新しい者に生まれ変わる事です。こうして主イエスの体につながるのです。
この主イエスと、しっかりと結ばれ、そこからどんなことにも耐えてなお生きていくものでありたいと思います。