2023年1月15日 塩山宗満
使徒言行録 21章17-26節 (新約 256ページ)
パウロは律法が生活習慣として身に付いているユダヤ人たちに割礼をするな、律法の慣習に従って歩んではならないとは言いません。パウロ自身も律法の規定には従って行動をしています。ただし、この割礼などの習慣がない異邦人についてはそのことをさせる必要はない、とはっきり言っています。救いはイエス・キリストを信じることにあること、主イエスの十字架上の死が律法から自由にして下さっているので、もうそれにとらわれる必要はない、と言うことです。
日本にキリスト教が入ってきた時点で、すぐに問題になったのはキリスト教の礼拝や信仰生活を送っていく上でこれまで日本で行われていた宗教的な行事や慣習にキリスト者はどう対応していったらよいか、と言うことでした。
わたしたちの周りにはたくさんの慣習があります。日本に住んでいて、日本の伝統の中で暮らしていて出会う、いろいろなことを、このことは神の前に行って良いかどうか吟味してみましょう。
原則ははっきりしています。主イエスのあがないと救いを信じている者は、そのことをしっかり知って、真の神を穢すのでなければ、どんなことにも対応ができる、と言うことなのです。
主なる神を信じることを礎にした上で、いろいろな慣習に対応していくことに加えて、キリスト者となったら新しい慣習が生まれます。それは第一に主の日の礼拝を共に守る、ということです。日々、聖書に親しみ、神に感謝し、周りのいろいろなことについて祈る、そして福音を周りの人たちに伝える、と言うことが習慣になります。この新しい慣習をしっかり身に着けて祈りつつ歩んで参りましょう。