2023年7月2日 塩山宗満
マルコによる福音書 15章25-38節
聖書を読んでいくと、イエス様が孤独であったことが分かります。家族の中でも理解されずに、あるときには身内の人たちが「イエスは気が変になった」と言われたので取り押さえに来たと書いてあります。律法を持つユダヤ人社会の中にいても、神の本当の意志を汲み取ろうとしない人たちの中で、孤独でした。宣教をしてユダヤの国中を歩き回ったイエス様、最初の頃は話を聞く人も大勢集まっていましたが、最後のエルサレムに向かう頃は弟子たちと数名の女性だけが従っていました。その弟子たちの中に、わずかな銀貨でイエス様を裏切ってしまう男、ユダがいました。あなたは、岩だ、その上に教会を建てようと告げた、弟子のペトロに三度も自分を知らないと言われて、逃げ出されてしまいました。神の子であるはずなのに、勝利と祝福を持ってこの世に来たはずなのに全く逆の姿を見せざるを得ない、そんな苦しみの連続だったイエス様の生涯でした。
イエス・キリストの十字架というのは、一人の偉大な人物が十字架に掛かったのではありません。十字架に掛かったのは神ご自身なのです。神ご自身が、自分を裁き、自分を鞭打ち、人類が抱えている重荷を負って下さっているのです。
私たちが抱えている、罪、重荷、苦しみ、悲しみをイエス様が担ってくださっているのです。使徒信条を読むと、「我は信ず」と述べます。私たちに求められているのはこのイエス様の生涯を知って、信じるだけでよいのです。このイエス様をしっかり信じて、従って、そしてそのことを回りの人たちに伝えていこうではありませんか。