2024年3月24日 三羽善次
ルカによる福音書 23章44-49節
今日から受難週に入ります。主イエスの十字架の苦難に光を与えることから、わたしたち信仰者の死のあり方を教えられたいと思います。
主イエスの死は福音書が記しているようにまことにむごい十字架刑によるものでした。両手と重ねた脚に釘を打ち付けられる十字架刑は、失神してそのまま死に至ることもある残虐な刑でした。それゆえにローマの市民にはこの刑は適用されませんでした。
主イエスは文字通り、断末魔の苦しみを受けられたのです。これほどの悲惨な姿で死を迎えた宗教指導者はどこにも見当たりません。
わたしたちはできるだけ安らかな死を迎えたいと心の隅で願っています。憐れで惨めな死より、ぽっくりと逝くのが一番と思ったりします。
また、長い闘病生活で体がやせ衰えた惨めな姿を他人に見られたくないと思う人もいます。しかしわたしたちは自分がどこで生まれるか選べないように自分の死に方も選べません。思いもよらない大病に罹ったり、突然の地震、水害何度の災害によって無残な死に方をする人々もこの国ではまれではありません。
主イエスが死の時、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。(23:46)」といわれました。わたしたちの死の様も神にゆだねるしかありません。だから人間の死の姿に優劣はないのです。はたらかみて無残で憐れな死に方と思われてもみ手にゆだねている信仰者にとっては死に方にこだわる必要はないのです。
主イエスの死の様にあずかる、という信仰に生きていればどんな死に方であっても良いのです。健康なときも弱り果てているときもすべて主にゆだねているならば、それは幸いなのです。主イエスの死を通して迷いのない生き方をしていきたいと思います。