2024年9月15日 三羽善次
マタイによる福音書 25章31-40節
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)今日の聖書の箇所でそう主イエスは言われました。主はしばしば「小さい者」と口にされます。
わたしたち人間は、いつも大きなもの、自分たちの価値に見合ったものに心を寄せるけれども、「小さい者」を見ようとしません。日本の諺に「寄らば大樹の陰」というのがありますが、おおかたそのような大きなところにかたまり、安心しようとするのではないでしょうか。
主イエスの「小さな者」へのまなざしは、このような価値観を覆すものです。「小さな者」にしたことは、王にしたこと、つまり主イエスにしたことだと言われます。
ロシアの文豪トルストイに『靴屋のマルチン』という民話があります。その物語では、「小さき者」を助け、励まし、親切な行いをした事が、主イエスにした事だと、信仰の証しとして語られています。
「小さい者」へのまなざしを促す主の言葉は、いつも私たちに向けて語られています。キリスト者として主イエスの言葉に素直に従い、生きるようにと言われるのです。
わたしたち信仰者は、主イエスご自身が神であられのに、私たちの友となるために「小さい者」になりきってくださったことを知っています。この驚くべきご愛に応え、私たちもまた「小さき者」へのまなざしを忘れず、一人の人間の中に主イエスがおられることを見つめる信仰の目を持ち続け、兄弟を愛していく者でありたいと思います。